【沖縄】故翁長雄志沖縄県知事は何と戦っていたのか?
公開: 2018/08/22 12:48 最終更新: 2018/09/02 8:55
最初に書いておくが、沖縄とは縁もゆかりもなく、その県民意識や政治環境、経済環境を皮膚感覚で分からないブログ主には結論は出せない。
ここでは最近見つけたあるエピソードに関する興味深い論文と記事、動画のみを覚え書きとしてメモする。
そのエピソードとは翁長氏の父親と兄の政界での挫折、あるいは落選のトラウマというようなもの。
一人の政治家の行動原理や政治立場の転向を一言や一行でまとめることはできないが、たまたま3つの別々の媒体で目にしたので気になった。
【沖縄の声】一目でわかる普天間と辺野古/沖縄県副知事の富川氏のルーツ[桜H30/8/17]
https://youtu.be/WOg0Z0eg9Mo
チャンネル桜沖縄支局「沖縄の声」
2018/08/16 に公開
出演:
又吉 康隆(沖縄支局担当キャスター)
金城 テル(沖縄支局担当キャスター)
又吉氏の考察は40:01辺りから。
翁長氏の兄の落選の話をしている。多分、又吉氏は以下に紹介するエピソードをご存知なのだと思う。
そして、兄の落選のエピソードは2012年11月24日付の朝日新聞のインタビュー記事。
これは、たまたま目にした2018年08月09日付の『翁長知事を「殉職」に追い込んだ真犯人は誰なのか』(アゴラ/新田哲史)という文で知った。
記事の前半はどうでもいいが、後半にインタビュー記事(記事については後述)について言及しており、新田氏は基地問題を巡る沖縄県民と本土の意識の違いに注目して、翁長氏の政治的立場の「転向」のきっかけを「ウチナンチュー(沖縄人)としてヤマトンチュー(本土の人)への大きな失望」と結論づけている。
ここでの「ヤマトンチュー(本土の人)」とは中央政界=政府と読み替えるべきだろう。沖縄における「保守」と「革新」の対立は本土のそれとは異なると言うことだ。
おそらく、このインタビューはその点に刮目すべきなのだろうが、ブログ主は先に「沖縄の声」を観ていたので、下の発言に注目した。
「中学生の時、兄貴が(琉球政府の)立法院議員に立候補した。そうしたら学校の先生が150人くらいで、相手候補の名前を連呼する。ぼくは1人で『オナガ、オナガ』と。向こうの中におやじの妹といとこがいて、後で『ごめんね、ああしないと村八分になる』と。本土の人はそういう対立を上から見て笑っている。だから、ぼくが思い切って真ん中にいくことで問題を解決したい」
※全文後述
沖縄で「保守」の立場で立候補した兄の選挙のことを語ったもの。
そして、ネットで見つけたある大学生の卒論に引用されていた部分。こちらは父親の選挙について語ったもの。
翁長のもっと身近なエピソードを話すと、翁長が小学生のころである。当時、学校の先生はどちらかというと革新系が多かったという。翁長自身はまだ小学生で政治を理解しないまま、自分の父親が選挙に勝ったか、と職員室に聞きにいくと、担任は対立候補の名前を黒板に書き、その対立候補の名前に二重丸をして万歳三唱したという。翁長自身は父親ももちろん担任のことも尊敬しているためとても複雑な気持ちになったという。また、村の中や親戚のなかでも保守と革新の対立は存在し、そのような対立を感じて育ってきたという。このような対立を幼いころから感じ、違和感を抱いたことが翁長の政治家の原点である、と振り返る(松原2015:81-85ページ)。
※『沖縄基地問題における翁長雄志の政治的立場の変遷について』より抜粋
www.law.ryukoku.ac.jp/~oshiro/paper/thesis2016_iwasaki.pdf
(リンクが貼れないのでコピペして下さい)
この論文は、(長いので引用しないが)翁長家のルーツの話も興味深い。前述の「沖縄の声」で金城テル氏が語っている「沖縄県副知事の富川氏のルーツ」と併せると、沖縄における「親中」というのは単に利権などというものでは語れない深いものがあるようだ。
翁長氏は一度も選挙に負けたことのない政治家だった。
ブログ主が小説家なら、翁長少年は県知事になって県政を混乱させることで沖縄県民に壮大な復讐を果たした、とするところだが...
【参考】2012年11月24日 朝日新聞デジタル『翁長雄志さんに聞く 沖縄の保守が突きつけるもの』
上記記事は前述のアゴラの記事の中で紹介されているあるFacebookの投稿の中でリンクされているもの。(元記事は既にリンク切れで、それをコピペしたページらしい) Facebookはアカウントを持っていないと参照しにくいので、インタビュー記事全文を以下にコピペするもの。
2012年11月24日 朝日新聞デジタル
翁長雄志さんに聞く
沖縄の保守が突きつけるもの解散総選挙で「沖縄」を語る声がほとんど聞こえてこない。原発問題は大事だ。消費税も大事だ。でも米軍基地問題はどこへ行ったのか。そんな本土の風潮に、沖縄を代表する保守政治家で、オスプレイ配備に反対する県民大会共同代表をつとめた翁長雄志・那覇市長(62)は問う。「甘えているのは沖縄ですか。それとも本土ですか」
■経済支援いらない、だから基地どかせ
配備当日の朝、反対集会であいさつをする翁長雄志那覇市長
――沖縄の基地問題をどうするのか。衆院選だというのに、本土で争点になっていません。
「意外ですか? オスプレイ反対で県民が10万人集まったって、本土は一顧だにしないんですよ。基地は、目に見えない遠いところに置けばいい。自分のところに来るのは嫌だ。アメリカには何も言わない。いつも通りだ。沖縄は困難な闘いを戦っているんです」
――普天間問題での鳩山由紀夫内閣の迷走で「あつものに懲りた」というのが永田町の感覚でしょう。
「ぼくは自民党県連の幹事長もやった人間です。沖縄問題の責任は一義的には自民党にある。しかし社会党や共産党に国を任せるわけにもいかない。困ったもんだと、ずっと思ってきた。ただ、自民党でない国民は、沖縄の基地問題に理解があると思っていたんですよ。ところが政権交代して民主党になったら、何のことはない、民主党も全く同じことをする」「僕らはね、もう折れてしまったんです。何だ、本土の人はみんな一緒じゃないの、と。沖縄の声と合わせるように、鳩山さんが『県外』と言っても一顧だにしない。沖縄で自民党とか民主党とか言っている場合じゃないなという区切りが、鳩山内閣でつきました」
――「いまはオールジャパン対オール沖縄だ。沖縄の保守が革新を包み込まねば」と発言していますね。
「沖縄の中が割れたら、またあんた方が笑うからさ。沖縄は、自ら招いたのでもない米軍基地を挟んで『平和だ』『経済だ』と憎しみあってきた。基地が厳然とあるんだから基地経済をすぐに見直すわけにはいかない、生きていくのが大事じゃないかというのが戦後沖縄の保守の論理。一方で革新側は、何を言っているんだ、命をカネで売るのかと」
「中学生の時、兄貴が(琉球政府の)立法院議員に立候補した。そうしたら学校の先生が150人くらいで、相手候補の名前を連呼する。ぼくは1人で『オナガ、オナガ』と。向こうの中におやじの妹といとこがいて、後で『ごめんね、ああしないと村八分になる』と。本土の人はそういう対立を上から見て笑っている。だから、ぼくが思い切って真ん中にいくことで問題を解決したい」
――それにしても、普天間飛行場のゲート前で、赤いゼッケンをつけて、オスプレイ反対の拳をあげていたのには驚きました。
「衝撃を与えないとね。保守からは『お前、右ピッチャーだと思ったら左ピッチャーだったんだな』とか言われました。『いやスイッチヒッターですよ』なんて言い返してね」
「でも抵抗感はありますよ。居並ぶのは、ずっと保革で戦ってきた相手でしょ。『沖縄を差別するようなオスプレイの配備は許さないぞ』『許さないぞ』という、このシュプレヒコールのタイミングが、まず分からない(笑い)」
――翁長家は、沖縄戦没者の遺骨をまつった「魂魄(こんぱく)の塔」の建立に携わったと聞きました。
「旧真和志村に住んでいた。いまの那覇新都心ですね。戦争で村は焼け、住民は糸満市に住むよう指定された。あたりは遺骨だらけ。村長とおやじが中心になって4千体くらい集めたらしい。最初は穴に埋葬していたけれど、数が多くて骨が盛り上がり、セメントで覆った。それが魂魄の塔。命名したのはおやじです。だから僕も、選挙の時には必ず早朝に行って手をあわせる」
「おやじとおじいちゃんは防空壕(ごう)から艦砲射撃を見ていたそうです。『大変だね』と話していたら、おじいちゃんがやられた。埋葬する余裕がないから、石を上においた。戦後遺骨を探したけれど見つからなかったそうです。母親の妹は、ひめゆりの塔で看護師として亡くなった。沖縄の人は、みんなこうなんだよ」
「戦争中にああいうことがあり、戦後も米軍の占領下でほったらかしにされても、沖縄は日本に操を尽くしてきた。なのに『沖縄さん、基地はあなた方で預かって、かわりに振興策をとればいい』などと全国市長会でも公然と言われる。論戦をしたら大変なことになるので、『そういうわけじゃないんですけどね』と言葉を濁すさびしさ。わかりますか」
――でも、利益誘導こそが沖縄保守の役割なのではないですか。
「振興策を利益誘導だというなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。そのかわり、基地は返してください。国土の面積0.6%の沖縄で在日米軍基地の74%を引き受ける必要は、さらさらない。いったい沖縄が日本に甘えているんですか。それとも日本が沖縄に甘えているんですか」
「ぼくは非武装中立では、やっていけないと思っている。集団的自衛権だって認める。しかしそれと、沖縄に過重な基地負担をおわせるのは別の話だ。玄葉光一郎外相にも言ったが、あんた方のつぎはぎだらけの防衛政策を、ぼくらが命をかけて守る必要はない」
「自民党の野中広務先生は、新米の県議だった僕に『いまは沖縄に基地を置くしかない。すまん。許してくれ』と頭を下げた。でも民主党の岡田克也さんなんか、足を組んで、NHKの青年の主張みたいな話をして、愛情もへったくれもない」
――しかし県議時代には辺野古移設推進の旗を振っていましたよね。
「苦渋の選択というのがあんた方にはわからないんだよ。国と交渉するのがいかに難しいか」
「革新勢力は、全身全霊を運動に費やせば満足できる。でも政治は結果だ。嫌だ嫌だで押し切られちゃったではすまない。稲嶺恵一知事はかつて普天間の県内移設を認めたうえで『代替施設の使用は15年間に限る』と知事選の公約に掲げた。あれを入れさせたのは僕だ。防衛省の守屋武昌さんらに『そうでないと選挙に勝てません』と。こちらが食い下がるから、向こうは腹の中は違ったかもしれないけれど承諾した」
――沖縄の保守と本土の保守の論理は違うということですか。
「ちがいますね。本土は、日米安保が大切、日米同盟が大切。それで『尖閣を中国から守るのに、沖縄がオスプレイを配備させない』と言う。沖縄にすべて押しつけておいて、一人前の顔をするなと言いたい。これはもうイデオロギーではなく、民族の問題じゃないかな。元知事の西銘順治さんが、沖縄の心はと問われ、『ヤマトンチュ(本土の人)になりたくて、なり切れない心』と言ったんだけれど、ぼくは分かった。ヤマトンチュになろうとしても、本土が寄せ付けないんだ」
「寄せ付けないのに、自分たちの枠から外れると『中国のスパイだ』とかレッテルを貼る。民主党の前原誠司さんに聞かれたよ。『独立する気持ちはあるんですか』と。ぼくは、なでしこジャパンが優勝した時、あなたよりよっぽど涙を流したと話しました。戦後67年間、いじめられながらも『本家』を思ってきた。なのに基地はいやだといっても、能面みたいな顔で押しつけてくる。他ではありえないでしょう。日本の47分の1として認めないんだったら、日本というくびきから外してちょうだいという気持ちだよね」
――自民党県連も、普天間の県外移設を掲げ、党本部の方針とねじれています。
「有権者は、選択肢として今ある政党に一票を投じるしかない。こんな選挙は茶番だと放り出すわけにはいかない。でも沖縄問題について、政党政治が民意を吸収できていないのは確かだ」
「沖縄の民主議員も、普天間の県外移設を主張したから、党本部とねじれて居づらくなった。もし自民政権になればああなるんだよと、仲間に言っています。自民の拘束力の強さは民主とは違いますよ。『県外移設』『オスプレイ配備撤回』などと議員が言えば、党は容赦ない。でもそれに従った議員は、その次の選挙で必ず落ちます。県民は許さない」
――自民政権に戻っても、翁長さんの主張は変わりませんか。
「よく聞かれるよ。自民党政権になっても辺野古移設に反対ですかって。反対に決まっている。オール日本が示す基地政策に、オール沖縄が最大公約数の部分でまとまり、対抗していく。これは自民政権だろうが何だろうが変わりませんね」
◇
おなが・たけし 50年生まれ。那覇市議、沖縄県議を経て、00年から那覇市長。11日の市長選で4選を果たした。自民党県連幹事長もつとめた。
◇
沖縄ではいま、保革を超えた沖縄ナショナリズムのうねりが起きている。翁長さんは、その先頭に立っている。沖縄に勤務する私も含めたヤマトンチュ(本土の人)と対抗するような「あんた方」という言いぶりに、戸惑いを覚える方もいるかもしれない。いいチャンスだ。そこで立ち止まろう。そして、沖縄と本土の関係をもう一度考えたい。(谷津憲郎)
【追記】2018/09/02
9月2日読売新聞『追悼抄』に掲載された翁長雄志・前沖縄県知事への追悼記事。
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