【世界遺産】『潜伏キリシタン』と『隠れキリシタン』
6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)が世界文化遺産に登録されることが決定しました。(ユネスコのサイト『Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region』はこちら。但しドキュメント等は未整備。)
ブログ主は世界文化遺産に対してもはや権威など感じておらず、今回もあまり興味がないので、新聞記事などは目を通していましたが、見出しなどに使われる『潜伏キリシタン』という言葉が気になっていたものの、そのままにしていました。キリスト禁教下のキリシタンは『隠れキリシタン』と習ったけど、最近はそう呼ぶのかな、程度で。
しかし、ここに来て、急に『潜伏キリシタン』の定義を説明し始めたので、『隠れキリシタン』と『潜伏キリシタン』は違うのだと知りました。(下は世界遺産登録を報じる7月1日付読売新聞)
左上の用語解説に注目。
潜伏キリシタン: 禁教期に寺院の檀家や神社の氏子となってキリスト教信仰を密かに続けた人々を指す。これに対し、明治期に禁教が解かれた (ブログ主註:1873年)後もカトリックに合流せず、禁教以来の信仰を続けた人々は「かくれキリシタン」と呼んで区別している。
いや、ちょっと待て、と思わず言いたくなります。
赤字の部分は(も)一般的には『隠れキリシタン』でしょう。歴史用語を勝手に変えるなと。
そして個人的には禁教令撤廃後にもこうした隠れキリシタンと同じ信仰のしかたを続けた人々がいたことのほうが興味があるので、これは後ほど補足します。
もう一つ、改めて気づいたのですが、「17世紀~19世紀の約250年におよぶキリスト教禁教期」が対象なのですね。つまり、秀吉のバテレン追放令からではなく、徳川家康、家光による1612年、13年の禁教令以降の期間です。高山右近(キリシタン大名)が追放されるのはこの直後(14年)です。
尤も、当初は単に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の登録を目指して活動していました。
イコモス(審査機関)に禁教期に絞るべきという指摘がなされ、それを受け入れたのですが、わざわざ数々の遺産を「キリスト教の弾圧」の側面だけに矮小化して評価するというのは、「軍艦島」が「徴用工」問題にすり替えられたことの二の舞になりかねません。
ブログ主の言いたいことは5月11日付産経新聞の『【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら〈25〉】 世界遺産もいいけれど…』(文化部・桑原聡記者)に書かれているので、リンクを貼り、ここでは随筆に引用されたそのモンテーニュ「随想録」からの一節をご紹介します。
第1巻56章 「祈りについて」
“我々は神を呼んで我々の悪事に助力させる。神を不正に引きずり込む。”
キリスト教伝来(1549年/織田信長の時代)から秀吉のバテレン追放令(1587年)のあたりの歴史のおさらいは上の『モンテーニュとの対話』に書かれていますが、我々日本人は、日本に於けるキリスト教を考える場合、「大航海時代」にあって、おめおめと西欧諸国の植民地などならなかったのみならず、ルイス・フロイス(ポルトガル出身のイエズス会士。インドで司祭となり、1563年(永禄6)来日。)を召し抱えたり、キリスト教を仏教弾圧に利用したりするしたたかさを誇るべきです。たとえ世界文化遺産として評価されなくても。
島原の乱も大規模な農民一揆というのが本質だと思います。
下は、5月5日付読売の、イコモスが世界遺産登録をユネスコに勧告した時(5月4日)の記事の一部ですが、ここでも森太記者がブログ主の言いたいことを言ってくれているのでご紹介します。
さて、ブログ主が世界文化遺産よりも関心を持った「かくれキリシタン」(禁教解除後も潜伏した信徒)ですが、昭和初期までその習慣は続き、現在でもごく少数の組織は残っているそうです。
これは7月2日付読売夕刊に詳しく説明されていたのですが、「外海(そとめ)の出津(しつ)集落」は禁教後も隣の佐賀藩の飛び地という場所で、佐賀藩の取り締まりが緩かったそうで、寺請制度(江戸時代、庶民がキリシタンをはじめ幕府禁制の宗教・宗派の信徒ではなく檀家であることを、その檀那寺に証明させた制度。)の元、曹洞宗の天福寺を建て、信徒を檀家にしましたが、ここではキリスト教の信仰は黙認されていたそうです。
禁教令が解かれ、前述のように『潜伏』であることをやめた者とそのまま『かくれ』であり続けた者が出たわけですが、記事によると、『かくれキリシタン』であり続けた大きな理由が「潜伏期の信仰の形を捨てないことが先祖への供養の形になる」からだそうで、ここで、おや?と思いました。
キリシタンとは言っても、先祖崇拝と融合した独自の信仰だったようです。
そして、後に『かくれ』をやめた人々の多くは、教会ではなく仏教に帰依していったそうです。天福時のご住職に記者がその理由を尋ね、このように答えています。「寺のお陰で先祖が長年の信仰を守れたからだと聞きます。」
世界遺産の登録を報じる記事の中でこれが一番心に残りました。
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