【尖閣諸島】中国政府がぐうの音も出なかった資料とは-明時代、中国人は尖閣への航路さえ知らなかった
今回は、尖閣諸島に関する大変分かりやすく興味深い動画をご紹介します。
説明して下さるのは『尖閣諸島に関する資料の委託調査報告書』の28年度版で特別研究員として参画されている石井 望(いしゐのぞむ)長崎純心大学准教授で、動画はチャンネル桜の『沖縄の風』です。資料は内閣府の領土・主権対策企画調整室のサイトに掲載されています。
中国政府の尖閣は中国の領土だという主張への反論というだけでなく、授業を聴いているようで、しかも、説明している石井先生があまりにも楽しそうなので、観ていてこちらも楽しくなります。
■【沖縄の声】特番!いしゐのぞむが語る~尖閣の歴史と領有への道~[H30/3/31]
平成30年3月30日金曜日に放送された『沖縄の声』。本日は、特番といたしましてゲストに長崎純心大學比較文化學科準教授のいしゐのぞむ氏に尖閣諸島の歴史について詳しく解説いただきます。
※ネット生放送配信:平成30年月3月30日、19:00~
出演:
ボギーてどこん(ジャーナリスト・沖縄支局担当キャスター)
ゲスト:
いしゐ のぞむ(長崎純心大學比較文化學科準教授)* * *
■内閣府 領土・主権対策企画調整室 尖閣諸島に関する資料の委託調査報告書
- 28年度報告書〔PDF〕
石井先生が動画の中で紹介しているこの報告書は「調査の目的・概要」に書いてあるように、あくまでも内閣官房が外部委託して作成された報告書で政府見解とはしないという弱腰なものです。
株式会社ストリームグラフは、特定非営利活動法人沖縄平和協力センター(以下、OPAC)の指導・協力のもと、平成28年度、内閣官房領土・主権対策企画調整室の委託に基づき、「尖閣諸島に関する資料の調査事業」を実施した。(中略)
なお、本調査は1年間という時間的制約の下で行われたため、必ずしも包括的なものではない。また、本報告書に記載する内容及び本事業における資料の収集及び選定は、研究委員会の助言を踏まえて研究チームが実施したものであって、政府の見解を表すものではない。
しかし、石井先生の説明を聴けば、2005年のロッテvs.阪神の日本シリーズ(総得点33-4)どころか100-0くらいで日本が中国に対して圧倒的な勝利を収めていることが分かる貴重な資料であり、先生が動画の中で示される資料も、報告書には正式採用されていないとは言え、尖閣諸島が日本の主権領土であることを十分納得させてくれるものです。
動画や資料をご覧になれば分かることですが、ブログ主のインデックスとして、更には多くの方の目に留まって貰いたいので、文字や図にして記録しておくことにします。
まず、動画の解説を1枚の図(地図)にまとめると下のようになります。
【歴史的背景】1609年以降、琉球は薩摩藩(島津家)が支配権を掌握し、幕藩体制に組み込まれていましたが、当時、明(みん)朝は朝貢国の中でも琉球を厚遇していおり、琉球は高い収益を挙げていました。その利権を握りたい島津家は琉球を疑似国家として存続させ、明との冊封(さくほう)関係を維持していました。(百科事典マイペディアより要約)
【石井望先生説明の概略】
この明-琉球の関係からも分かるように、琉球からは年に1度、朝貢のために東西航路(海道)を通って福州との間を行き来していましたが、福州の中国人(以降、便宜的に中国人と表記)が琉球に来ることはめったにありませんでした。そして来るときには、航路が分からないため、馬祖列島(ばそれっとう)の端で琉球の水先案内人と交代し、中国人は彼らに導かれてやって来たのでした。
また、江戸時代にはこの海域に台湾などからの海賊船が多く出没していたため、オランダの船が長崎に入るために北上する時、台湾の最北端で、海賊でないことを示す旗を揚げる決まりになっていました。
このことから、馬祖列島の東側、台湾の北側は日本(薩摩藩)が制海権を握っていたことが分かります。
この春、天皇皇后両陛下が日本の最西端である与那国島に行幸されました。与那国から南北に線を引くと尖閣諸島はすっぽりと日本側に入ってしまいます。
報告書の6ページ(6枚目)に書かれていることは、尖閣に上陸した最古の記録が日本人(琉球人)であることを示す資料です。(手書きの文献を1970年代に活字にしたもの)
【読み下し文】
「…(九月)十七日、天氣まさに晴れ、高山を看得たり、猶ほ地名を知らず(後に聞く、此の山、俗に「魚根久場島」(=尖閣=よこんこばしま/古くは「いをこんこばしま」 「いを」は魚の古語)と呼ぶなり。十八日、駛(は)せて該山の下に到り灣泊し、用水を汲まんと欲すれど、並びに泉の湧く無し。一連三日、彼の處に風を候す。忽然として暴風大いに作(お)こり、抛つ所の碇索、ことごとく海浪に磨斷せらる。船隻、風に隨ひて海洋を漂蕩し、船上の人數頻りに神佑を求む。幸ひに二十三日に至り、又た遠く高山を看る、二十四日、漸く其の山に近づく。只だ看る山上に一個の人有り(此の人、八重山島の奉公人、安里仁屋なり)、手を舉げて船を招く。又た五六人有り、旗を搖らし港を示す。即ち船人をして高聲に其の地名を問はしむるに、答へて曰く「與那國島」と。…」
これだけ読んでも説明がないとよく分からないのですが、これは琉球王国の具志川家十二世・向鴻基(しょうこうき)という人物が薩摩上り(のぼり)といって、薩摩の殿様のところに行くときに船が流されて尖閣に辿り着き、3日間停泊し、水を探す。ということが書いてあります。「駛(は)せる」とは「速く行く」という意味だそうですが、重要なのは「水を探す」ということ。これが上陸を意味するということです。
これ自体は報道もされましたが、その時一時限りで忘れられているので、石井先生が報告書に入れることを強く要請して加えられた資料だそうです。この資料を見つけたのは國吉まこも氏だそうですが、この記述に気づいたのは石井望先生です。
なお、この記述が発見されたとき、中国政府はノーコメント(無反応)だったそうです。
また、それまで、尖閣諸島への最も古い上陸記録は1845年でイギリス人とされていましたが、これですらこの記録の原文を読むと「八重山のパイロット(水先案内人)」に案内されたと書いてあり、当然、その時に水先案内人も上陸したことが想像され、航路を知っていたのですから、それ以前に尖閣に行っていてもおかしくありません。
この時に日本人の存在が消されてしまったのは井上清という学者が40年前に中国と組んでそのように喧伝したからだそうです。
これ以降、動画で紹介される資料はほとんどが報告書には収録されていませんが、尖閣が日本の領土だというのに十分説得力のあるものです。
例えば下は中国政府が中国最古の記録として1534年に尖閣諸島へ行き来してた証拠として出してくる資料の前段の部分ですが、
これは1533年の記録で、書いてあるのは、 「琉球国の進貢船(朝貢船)が来て喜んだ。海道を諳(そら)んぜず(=航路は知らない) 。琉球船がもう一隻来てまた喜んだ(又喜)。善き操船遣看針通事(水先案内人)が中国側30人に加わってくれることになり、また喜んだ。」と、喜びっぱなしなのです。
中国はこれを隠し、この翌年の釣魚台(尖閣)を通る記録のみ示しているのだそうですが、こんなに大喜びしているのでは隠したくもなるでしょう。
この後に紹介された資料も悉く琉球人に案内された記録ばかりです。
下は、別の資料で、やはり明時代の中国人が琉球人の水先案内人に頼っていた証拠。
多分、これらの資料を突きつけられると中国政府はぐうの音も出ないので、“琉球人は日本人ではない”、“琉球は無理矢理日本に併合され、琉球人は少数民族だ”という運動にシフトしたのだと思います。
それにしても、日本政府が“及び腰”過ぎて情けなくなります。山口二郎に6億円も科研費を支給するならこういう研究にこそ支給しろと言いたいです。
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