『学園浸透スパイ事件』とその時代 No.3 北朝鮮と社会党の癒着
「『学園浸透スパイ事件』とその時代」というカテゴリで『徐勝-「英雄」にされた北朝鮮のスパイ 金日成親子の犯罪を隠した日本の妖怪たち-』(張明秀著/宝島社/1994.12)という本に書かれている内容をブログ主の覚え書きとしてまとめていますが、今回は、日本の政治家、特に社会党について書くことにします。
この本の第七章は「社会党政権に潜む北の代理人たち」という見出しがつけられており、これを読むと、田辺・土井体制がどれほど北朝鮮ベッタリだったのか明らかになります。
そして、旧社会党はは社民党と名前を変え、一部は民主党へ流れ、その後の民主党の分裂で立憲民主党などに身を潜めて、北との繋がりを保っています。
このことを忘れてはなりません。
『学園浸透スパイ事件』とそれによって韓国で逮捕~死刑判決(1971年(昭和46年))を受けた徐勝氏については前回のエントリーに簡単にまとめましたが、在日朝鮮人(ここでは、半島出身者という意味で「朝鮮人」としていますが、正しくは在日韓国人)の事件であり、国内の『救う会』を始めとする支援者、朝日新聞、岩波書店(月刊誌『世界』)によるキャンペーンもあり、日本の国会でも社会党が中心となって救出活動を行いました。
徐勝氏が特赦によって釈放されるのは19年後の1990年2月のことで、その年の9月、自民党の金丸信元副総理、社会党の田辺誠副委員長(当時)をそれぞれ代表とする両党代表団が訪朝訪朝します。いわゆる金丸訪朝団です。この道筋を作ったのも社会党。
今でこそ、社民党(1996年日本社会党が改称)は消えつつある政党ですが、1955年以来、『五十五年体制』下(※)で社会党は一定の勢力を保っており、金丸・田辺訪朝の前年の1989年、第15回参院選では社会党は大躍進し、「おたかさん(土井たか子)ブーム」と呼ばれました。
※五十五年体制: 日本社会党の左右両派が統一、翌年自由民主党の結成により確立されて以来の、この二大政党を中心とする政治体制
以前のエントリーで北朝鮮の出先機関である総連から共産党は距離をおいていたことを説明しましたが、北にとって日本の政界との繋がりは社会党が頼りだったのです。そして、社会党も相応の見返りを受けていたwin-winの関係だったのでしょう。
例えば、1987年には週刊文春(8月24日・31日号の2号連続)で土井たか子とパチンコ業界・総連との癒着に関する記事が報じられています。(P.192)
北朝鮮のスパイ、辛光洙の釈放を嘆願した社会党を中心とする日本の議員
辛光洙(しん・がんす/しん・ぐぁんす)という北朝鮮のスパイをご存知かと思います。
1985年にソウルで韓国当局に逮捕されたことで、1973年に日本国内に不法入国して日本人を装い、日本人拉致などの行為を行っていたことが判明しました。
死刑判決を受けるも、後に無期懲役に減刑され、1999年12月31日、金大中大統領によるミレニアム恩赦で釈放されて北朝鮮に送還、北朝鮮では英雄とされています。
服役中の1989年、日本の国会議員(日本社会党・公明党・社会民主連合・無所属の議員有志133名)から釈放を嘆願する要望書が韓国政府に提出され、後(2002年)に北朝鮮の金正日が公式に拉致を認めると、当時官房副長官であった安倍晋三氏が嘆願書に署名した土井たか子・菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と評したと言われています。
実は、この嘆願書は本来、徐勝氏を含む在日韓国人政治犯の釈放を嘆願するものだったのです。対象者は29名で、その中に在日韓国人でもない辛光洙が含まれていました。
本書が書かれた1990年代初期の日本国内の政治状態
本書の中で、「近年(執筆当時の1994年頃)になって、(社会党の)内部批判や党を辞めた人達の告白によって、日本社会党と北朝鮮・総連のひどい癒着ぶりが暴かれつつある」(P.179)との記述があります。
前述の通り、今と異なって社会党は一定の勢力どころか大躍進したこともありましたが、予備知識として、出版された当時の社会党を簡単におさらいしておきます。
1993年(平成5年)8月9日から1994年(平成6年)4月28日までは細川内閣であった。
非自民・非共産8党派の連立政権であるこの内閣の発足により、1955年(昭和30年)の結党以来38年間政権を維持し続けた自由民主党は初めて下野することになった。社会党は与党第1党ではあったが、1990年のおたかさん(土井たか子)ブームも去り、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかった。しかし、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。
1994年、細川首相退陣後、総選挙敗北の責任を取って辞任した山花委員長の後を受け就任した村山富市委員長(93年9月就任)は羽田連立与党から離脱。1994年6月、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定し、村山政権(自社さ政権/1994年6月30日~1995年8月8日)が発足する。
北朝鮮と社会党の繋がり
北朝鮮(朝鮮総連)と社会党との繋がりは1950年代後半の在日朝鮮人の帰国事業の頃に遡ります。
1959年に「朝鮮問題対策特別委員会」を設置して帰国事業の推進を図り、12月からの帰国事業は社会党が中心的役割を果たしました。
前回のエントリーで共産党と総連の関係に少し触れましたが、70年代初めまでは社会党と日本共産党の統一戦線的な団体「日朝協会」が北朝鮮と繋がっていました。しかし、北が金日成への貢ぎ物を強要したために共産党と総連が仲違いし、これ以降、総連は社会党を取り込んでいきます。
北朝鮮と社会党の繋がりを語るのに役立つ本が、『日本社会党興亡史』(上住 充弘著/自由社/1992/9/27)です。(思わず古書を買ってしましましたが、注文してから630頁もあると気づきました。 )
抄録を引用すると、以下のような内容で、社会党の広報誌などの内部資料と共に実態を公表するものです。
日本社会党、右派書記局の先頭に立つ著者が、40年間苦楽を共にしてきた党の政策と組織構造に客観的なメスを入れる。著者の党での政策審議会や企画室、国際局の資料、体験をもとに、土井・田辺時代の外交・防衛政策と政権問題に焦点を当てて書かれた実録。
この中に1984年の12月20日の社会党・中央執行委員会での秋山長造という人物の発言が収められています。それは、「大衆運動家、教授や韓国の民主化運動家と党の一部の接触もあるが、韓国政府に分かれば死刑になるので、はっきりした文書にはできない。」というもので、いかに社会党が北の手先として対南工作活動を行っていたかを証明しています。(P.191)
以下に、北と社会党との癒着を表す事実を書いておきます。
- 1972年2月、10月、80年5月、83年4月と日本の国会は徐兄弟救援の訴えと要望書を韓国政府に提出。76年1月31日には衆議院予算委員会理事会で全員一致で「死刑執行の中止」を求める決定。これに尽力したのは社会党の安宅常彦議員。
- 土井たか子氏は衆議院外務委員会で、78年5月10日、26日、6月14日、80年2月14日、5月15日、82年4月21日、84年4月25日と、園田、大来、桜内、安部の歴代外務大臣に執拗なまで徐兄弟の問題を質問。78年5月10日には雑誌『世界』5月号の『徐兄弟・獄中からの手紙』を振りかざして救出を迫る。(P.183)
- 1984年12月20日の中央執行委員会では韓国政府を承認する決定を行うが、それに先立つ14日に外交委員会と朝鮮問題対策特別委員会との合同会議。ここで、北一辺倒の姿勢から韓国との交流へ議論するも、山花貞夫氏(当時外交委員会事務局長)は「日米韓の軍事的結びつきの強化になるような交流には反対と発言している。(韓国は全斗煥大統領時代)
- 1985年5月23日、田辺誠氏が7名の代表団と共に北朝鮮を訪問し、金日成と会談。2月の韓国大統領選挙について話題にし、金日成は韓国の「自主化」が大事と述べている。(月刊社会党に報告記事) 自主化とはアメリカと手を切ること。
- 1987年9月24~28日、土井たか子氏北朝鮮を訪問し、金日成と会談。この少し前に週刊文春で8月24日・31日号の2週に渡って土井たか子氏とパチンコ業界・総連との癒着に関する記事が掲載される。
- 1987年11月29日、「蜂谷真由美」こと金賢姫(きむひょんひ)らによる大韓航空機爆破事件を北は「南の自作自演」と主張。社会党もこれに同調して機関誌『社会新報』でも大々的に宣伝 土井たか子も「この事件は北にはメリットがない」と主張(P.188)
本に書かれているごく一部ですが、北との癒着を示す事実は枚挙にいとまがありません。
慰安婦問題と社会党の役割
土井たか子氏はこれ以外にも慰安婦問題の団体(韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協))との繋がりが指摘されています。この繋がりは土井チルドレンと呼ばれている福島瑞穂議員や辻元清美議員に脈々と受け継がれていることは周知の通りです。
一例として、本書には「アジアの平和と女性の役割」が主催するシンポジウム(1993年4月)に北朝鮮からの出席者があったと書かれています。
これは土井たか子衆議院議員を始めとする社会党の女性議員の呼びかけで開かれたものです。ここで“従軍慰安婦”の補償が主な議題となり、朝日などの新聞各紙が報じました。(P.176)
9人の女性議員は、代表団派遣に感謝する手紙を金正日宛に出し、その手紙の全文が朝鮮総連機関誌である「朝鮮新報」(6月12日付)に掲載されましたが、手紙は以下のように結ばれていたそうです。
“尊敬する金正日書記におかれましては今後もご健壯で、共和国の発展と祖国統一偉業...のため活躍されることを衷心から祝願申し上げ感謝の意を表します。”
このシンポジウムには、韓国からも出席者が参加していますが、野党である民主党の議員と、慰安婦への補償を求める「韓国挺身協」(政府は補償を求めていなかった)で、土井たか子氏等の手紙には、そのシンポジウムによって、“祖国統一のための十大原則の理解が深められ”とか、核査察に関して“共和国の提起が肯定的に受け入れられ”といった言葉が書いてあるそうです。
従って著者は、このシンポジウムは南(韓国)の切り崩しに社会党が加担したものと見ています。
実は、上記の事柄の正確な日付、特に年が分からなかったのですが、調べてみると、2012年9月24日頃の産経の記事(を引用したまとめサイト:http://kimsoku.com/archives/7470144.html)が見つかりました。(ネットって便利ですねぇ。 )
元記事はリンク切れですが、転記されていた全文を以下に引用します。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120923/kor12092318010001-n1.htm (リンク切れ)
韓国の李(イ)明(ミョン)博(バク)大統領が8月の竹島上陸の理由として掲げた「慰安婦」問題が、実は韓国の親北朝鮮勢力と北朝鮮による日韓接近への妨害工作だったとの見方が出ている。元慰安婦を支援するとして組織された韓国の団体が、北朝鮮工作機関の傘下団体と協力関係にあり、問題解決に 向けた日韓両政府の歩み寄りをたびたび妨害してきたことが分かってきた。(ソウル 加藤達也)
8月15日。日本統治からの解放を祝う「光復節」を迎えたソウルの日本大使館前では、激しい雨の中、ある集会が開かれていた。
警察の非公式集計で約1300人が参加したこの集会を主催したのは、元慰安婦の女性を支援するとして組織された反日団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」だった。
正午から約2時間の集会で参加者らは、仮設舞台に次々に上がっては大声で元慰安婦を激励したり、 日本政府を糾弾したりした。登壇者の中に声明を読み上げた2人の女性がいた。
挺対協の代表と北朝鮮側の「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会(朝対委)」の代理人で、南北慰安婦支援団体の共同声明という形を取っていた。
「日本は日本軍性奴隷犯罪をはじめ強制徴用と徴兵、朝鮮人集団虐殺、文化財略奪など私たちの民族へのあらゆる犯罪行為に対し、また人的物的被害と略奪行為に対して公式に謝罪し賠償しなければ ならない」
声明では日本政府に慰安婦問題などの解決を要求する一方で、日韓の軍事協力を「徹底的に阻止する」 と宣言。それは、日米韓の軍事的結びつきを嫌う北朝鮮の主張と一致していた。
挺対協は1990年11月、韓国女性団体連合会など16の団体の連合運動体として結成された。反日団体であると同時に親北朝鮮団体でもある。昨年12月の金(キム)正(ジョン)日(イル)総書記の死去にあたって、幹部が弔電を打つほどの関係だ。
反日世論を味方につけたい韓国政界に巧みに取り入り、一定の発言力をもつ。日本大使館前での毎週 水曜日の集会を主催し、昨年12月には大使館前の公道に慰安婦を象徴するとされる少女像を違法設置した。
挺対協について韓国治安機関関係者は「北朝鮮工作機関と連携し、反日活動や、北朝鮮の利益を代弁する主張を展開している」と指摘する。
挺対協の尹(ユン)美(ミ)香(ヒャン)常任代表の夫とその妹は93年、スパイ事件に関与したとして摘発され有罪判決を受けていた。当局は「尹代表の近親者に北のスパイがいる事実と、挺対協の活動との関連は注目に値する」として現在も動静を注視しているという。一方、挺対協の北朝鮮側カウンターパートである朝対委との関係も濃密だ。韓国治安機関は朝対委について「朝鮮労働党の工作機関である統一戦線部のカバー(偽装)部署だ」と断定している。
北朝鮮は92年2月に平壌で開かれた南北首相級会談で、韓国側で始まっていた「慰安婦」問題の対日追及運動を南北共闘でできないかと打診。韓国側が受け入れ、8月には北朝鮮で朝対委が組織された。
これら2つの反日団体はこの年の12月、東京で開かれた「『従軍慰安婦』等国際公聴会」で初めて合流すると、「慰安婦」を「性奴隷」と位置づける政治宣伝工作に着手。活動を世界規模で展開し始めた。
このころ、北朝鮮は日本においても、当時の社会党を取り込む工作を活発化。93年4月に東京で開かれた「アジアの平和と女性の役割」に関する第4回討論会では、北朝鮮から最高人民会議(国会に相当)副議長らが訪日した。5月には討論会参加者の土井たか子社会党元委員長らが金正日氏に「感謝の書簡」を送付。慰安婦問題を利用した世界的な反日活動に日本政界からも支援者が現れた。
慰安婦の強制連行を認めた、宮沢内閣時の河野洋平官房長官による「河野談話」が出された93年は、 「北朝鮮と日本、韓国の北朝鮮追従勢力が連携して対日攻勢を仕掛ける作業の真っただ中だった」。韓国情報機関元幹部はこう指摘した。
挺対協については、実は韓国の有識者も強い疑問を呈してきた。
ソウル大の安(アン)秉(ビョン)直(ジク)名誉教授は2006年12月、韓国MBCテレビでこう発言した。 「私もはじめは(日本軍による)強制動員があったと考えて挺対協と合同で調査をしたが、3年でやめた。挺対協の目的が慰安婦問題でなく、日本と争うことにあると悟ったからだ」
挺対協は1993年、物的証拠がないのに慰安婦募集時の強制性を認めるという、日本側の大幅譲歩である河野談話による日韓両政府の妥協に強く反対した。また、民間募金による元慰安婦らへの「償い金」と首相の手紙を届けるという日本政府の提案に対し、挺対協は、償い金を受け取った元慰安婦を「自分の意思で公娼になった」と恫(どう)喝(かつ)。受け取りを拒否させようと圧力をかけた。
「挺対協は政府公式謝罪という、日本が絶対に飲めない条件を提示して韓国政府に対日交渉を要求している」(日韓外交筋)。
李大統領に近い政府高官は慰安婦問題に触れ、「日本が国家として責任はないと言えば、元慰安婦にいくら温かい言葉をかけても駄目だ。法的責任はないと強調すれば彼女らの心のしこりは解消されない」と述べた。保守の李政権高官からして、「日本政府の責任認定と謝罪」を求める挺対協の言い分を なぞっている。
問題の根は深い。
■慰安婦問題と韓国政府の対応
韓国政府はもともと、慰安婦について貧困などによる人身売買被害者との認識だった。1965年の日韓請求権協定締結に向けた議論の中でも韓国側は問題提起せず、以後、賠償請求が起きた際には他の戦時徴用者らと同様、韓国政府が補償に当たってきた。
韓国歴代政権は慰安婦への賠償請求を対日外交問題としてこなかったが、親北朝鮮の左派、盧(ノ)武(ム)鉉(ヒョン)政権は方針を転換し、「日本軍慰安婦など反人道的行為に対して日本政府の責任を追及する」と決定した。挺対協も2006年、韓国政府が慰安婦の賠償を日本側に求めないのは違法だとして提訴。昨年8月には韓国憲法裁判所が、韓国政府が慰安婦への賠償問題を放置していることを「違憲」と判断した。
韓国政府は挺対協などによって形成された世論と憲法裁の判断に押される形で、日本に慰安婦問題の解決を迫るようになった。
今回で『徐勝-「英雄」にされた北朝鮮のスパイ 金日成親子の犯罪を隠した日本の妖怪たち-』から個別にテーマをピックアップしてまとめた記事は最後となります。
本を読みながら日付を拾ってメモしていたので、その内、新しいエントリーとして時系列に整理したまとめを書く予定です。
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