スイスの永世中立とは/『民間防衛マニュアル』、シェルター、徴兵制の現状
公開: 2018/01/16 17:34 最終更新: 2018/04/28 10:29
少し前に読売新聞の国際面に『民間防衛の現状 スイス』と題して、スイスの民間防衛の現状をリポートした記事が連載されました。
連載の結びの言葉には首を傾げたのですが、記事の内容自体は興味深いものだったので、覚書として記事にしておこうと思います。
詳細は後述しますが、記事の内容としては、
- シェルター設置義務の現状 (「上」 2018/01/11)
- 『民間防衛マニュアル』 (「中」 2018/01/12)
- 徴兵制の現状 (「下」 2018/01/14)
というものです。
ブログ主は寡聞にして知らなかったのですが、スイスには1969年に国民に配布された『民間防衛マニュアル』というものがあり、日本でも70年に翻訳され、今でも売れ続けているロングセラーになっているとのこと。
1969年ということからも分かると思いますが、東西対立が激しかった時代に作られたものです。
確かにAmazonのレビューを観ても、このエントリーを書いている現在で181ものレビューがついているのにも関わらず☆が4つ半と高評価で、関心の高さや満足度が窺われます。
『民間防衛マニュアル』についてはこの後もう少し詳しく記述します。
シェルターの設置義務の現状
下は公共のシェルターだそうです。
このシェルターは地下の1フロア(400平方メートル)で、収容人員は約400人、有事の際はここに2週間滞在できるようになっているそうで、一時的なものなので居住性は考慮されていないとのこと。
スイスにおいてシェルター設置が義務づけられたきっかけは「キューバ危機」で、「永世中立は核の灰から守ってくれない」という危機感から設置が義務づけられました。
2012年の法改正で設置基準が緩和され、拠出金を支払った個人や公共のシェルターが確保できる地域は設置義務がなくなったそうですが、現在は個人用を中心に36万戸、総収容人数は約900万人(スイスの人口は約840万人)です。
冷戦終結後も「原発事故や自然災害など多目的に使える」という理由でシェルター政策を維持した結果、供給過剰や老朽化、維持費の増大が問題になり、2012年に法改正がなされたそうです。
ルツェルン市の例では76年に地下7階、収容人数2万という巨大なシェルターが作られましたが、維持費がかさむことを理由に2006年に2千人用に縮小されました。
この回の記事の見出しは『自慢のシェルター 重荷/供給過剰 進む老朽化』というものですが、法改正以前も自治体毎などで適正規模は見直しされていたわけです。
『民間防衛マニュアル』
前述のように冷戦時代に作成されたものなので「核や生物化学兵器の攻撃から身を守る方法」や「スパイ行為」などの危険性にも触れ、生き残りが1人になってでも戦う心構えを説く内容だそうです。
このマニュアルは1969年に1度だけ国民に配布されたもので改訂もなく、現在ではマニュアルの存在を知らない人も少なくないそうで、スイス国民がこれを熟知しているというのは誤解だとのこと。インタビューしたスイス連邦工科大学の専門家は「日本に今も侍がいる」と勘違いするようなものだと答えたそうです。
スイスにおける担当省庁は「スイス国防・民間防衛・スポーツ省」だそうですが、この記者は意図的にミスリードさせるような記事を書いています。
東西冷戦が終わり軍事的脅威が減少し、もはやマニュアルはスイスにおいては陳腐化したわけですが、省庁名になぜ、『民間防衛』という言葉が残っているのかと質問し、報道官は「民間防衛はなくなったのではなく、大きく変わった」と回答しています。
その変化とは、「自然災害などの緊急事態から国民を守るのが主目的になった」ことだそうで、ブログ主はここでこのやりとりに違和感を覚えて、『民間防衛』に当たる部分は正式には何というのだろうと疑問を持ち調べてみたところ、ドイツ語で「Eidgenössisches Departement für Verteidigung, Bevölkerungsschutz und Sport」といい、英語では「Federal Department of Defence, Civil Protection and Sport」と言うそうです。
つまり、『民間防衛』というより『国民の保護』が正しいのですね。
ちなみにスイスのマニュアルのタイトル『Zivilverteidigungsbuch』は英語に訳すと『civil defense』。これは『民間防衛』と訳すのは正しいです。
日本語で「民間防衛」と聞くと「国民皆兵」とか国民が武器を持って戦うようなことをイメージしますが、ジュネーブ駐在の記者が日本語で報道官とやりとりしたわけではあるまいに、Civil DefenseとCivil Protectionを混同するはずもなく、「なんでいまだに『Civil Protection』なんて言葉が入っているのか」なんて質問するのは不自然です。
この3回に渡る特集記事は意図的なのかそうでないのか分かりませんが、“スイス国民の高い国防意識なんて今は昔”という印象を受けるような書き方をしていて違和感を覚えます。
そりゃね。スイスはいいですよ。周囲はフランス、ドイツ、オーストリア、イタリアですもの。
日本はロシア、中国、北朝鮮に韓国ですよ...
この記者はスイスなどという国にいて頭の中が“お花畑”になっちゃったのかも知れませんが、もし『民間防衛マニュアル』を題材に記事を書くなら、「今こそ、日本は冷戦下のスイスに見習って日本版『民間防衛マニュアル』を策定すべき」でしょう。ブログ主ならそういう記事を書きます。(この記事で記者は個人的な意見は書いていないのですが、見出しといい、どうも、誘導しようという意図が感じられるので。)
ちなみにこの回の見出しは『冷戦マニュアル 時代錯誤』、『謀略、スパイ...今は「災害」』ですが、陳腐化した内容のマニュアルを今も国民に配布し続けているわけでもないのに、1969年のマニュアルを「時代錯誤」呼ばわりするのも馬鹿馬鹿しい話です。
【追記】Budesrat(連邦評議会-日本で言う内閣府みたいなもの)のサイトでは、この『民間防衛マニュアル』を作成した当時の公文書(PDF)が公開されています。
それにしても、日本人が今でもこの本を買って読んでいるなんてスイス人が知ったら驚くでしょうね。
スイスの徴兵制の今
先にこの回の見出しを書いておくと、『危機管理 災害へシフト』、『兵役「非武装」も可能に』というもので、用語解説として「スイスの徴兵制」というコラム(下)があります。
スイスの徴兵制: スイス軍の常勤兵は約5000人足らずで、兵力約15万人のほとんどは徴兵制確保した予備役兵で構成される。
男性は18歳で徴兵検査を受け、長い人で50歳まで一定期間の訓練などへの参加が義務づけられる。予備役兵を含む有事の兵力規模は縮小傾向にあり、今後10万人に減らす案もある。
1996年からは徴兵の際に兵役ではなく『非武装の公務』に就いて、『民間防衛』の訓練を受けることもできるようになったそうで、訓練センターでの訓練の風景もレポートされていますが、「ビルに取り残された負傷者(に見立てた人形)を担架に乗せて地上に降ろす訓練」や「コンクリートの瓦礫を取り除く訓練」が行われており、ガス爆発や地震、土石流を想定して訓練しているそうです。
日本では自衛隊の皆さんに任せっきりの災害救助もスイスでは民間人も参加するということだと思います。
非武装の公務はドイツ語では「Zivildienst」なので、『文民の役務』の方が適当だと思います。(英語なら、ニュアンスは異なりますが、「alternative service」(代替役務)でしょうか。(兵役に就く代わりに社会奉仕などをする、ということが多いでしょうが。)
記事では、“軍務に対する葛藤から「公務を志願する人は少なくない。」(ジュネーブ州当局者)という。”と書かれているのですが、カギ括弧の外に出ている“軍務に対する葛藤から”は誰の言葉なのでしょうか?
この後、記事はこのように続きます。“それでも、2013年に実施された徴兵制廃止の是非を問う国民投票では廃止への反対が7割を超えた。”
なにが「それでも」なんでしょうか?
実はこのあたりで、記者の国語力の問題かとも思い始めているのですが、スイスでは「軍務」であれ、「公務」であれ、国民の義務として国に奉仕するのは当然だと考える人が7割以上いる、というだけではないでしょうか。
この記者は連載の結びとしてこう書いています。“伝統を守りながら新しい環境にどう適応させていくのか、スイスの模索が続いている。”
言葉の選択ミスかも知れませんが、「模索」と言うと「手さぐりで探すこと。状況が不明の中でいろいろ試みること。てさぐり。ぼさく。」(広辞苑)という意味で、若干悩んでいるようなニュアンスがありますが、3回の連載を読んだ印象は、国民皆兵というシステムを軍事だけでなく災害救助などのより現実的な脅威への対応に上手く適応している国というものでした。
情報は充実していて良い取材なのに、記事の論理構成が不味いからか、あるいは、ストーリーありきで記事を書くからか、残念な記事になってしまった例です。
『永世中立国』とは
ここでは、ブログ主の手元にあるブリタニカ国際大百科事典(電子辞書)から引用します。
自ら戦争を始めないこと、また他の国家間のいかなる戦争にも参加せず、中立を守ることが国際的に確立している国家の地位。このような地位にある国家を永世中立国という。
永世中立国は自国を防衛するため、または交戦国による中立侵犯を防止するため、武力を行使することは妨げない。
永世中立国としてはスイスとオーストリアがあげられる。
スイスの永世中立は1815年の議定書によって成立した。(ブログ主註:【ウィーン会議】1814~15年ウィーンで開かれた国際会議。イギリス・フランス・ロシア・プロイセン・オーストリアなどがフランス革命戦争およびナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序の再建を図って開いた。)締約国はスイスの永世中立を承認するだけでなく、もしそれが他国によって危うくされるときはスイスを援助するなど、中立を保障することを約した。
オーストリアの永世中立は第2次世界大戦後の1955年、同国が憲法で永世中立を宣言して関係国に通知し、諸国がこれを承認することにより成立した。ただし、諸国はスイスの場合のように条約上の保障義務を負うわけではない。
これを読んで知ったのですが、オーストリアはウィーン会議の議定書から抜けたということなのですね。
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【ブログ主】
>スイスの永世中立は、元来仏・独・伊・墺に対する中立です。
元々このエントリーは読売の記事が変だったので批判するのが目的だったのですが、スイスという国家を考えるとき、モザイクのような民族構成を考慮する必要がありますね。
時々、スイスのような永世中立を理想とする論調がありますが、列強の都合だというのは理解しています。
本来、韓国がスイスのような緩衝地帯になって欲しいのですが、スイスのような政治力や知性がないので日本が防波堤にならざるを得ないのが辛いところです。
投稿: 大師小ブログ主 | 2018/01/16 22:40
スイスの永世中立は、元来仏・独・伊・墺に対する中立です。
歴史的に見ると、ヨーロッパの戦争はこのスイス周辺の大国の争いが中心でした、
一方スイスは独・仏・伊民族による複合民族国家です。 これで周辺諸国の戦争でどれかに加担すると、国内で民族同志の不和に繋がるのです。 だから中立でいるしかないのです。
また近代以前スイスの主要産業が傭兵でした。 周辺諸国の何処にでも傭兵を売り込むには、中立でいるのが一番でした。
そして天然の要塞のような国土に加えて、傭兵を売り込むような国では、攻め込もうと言う国もありませんでした。
こういうスイスの実利的な永世中立を、戦後の日本は東西冷戦での中立と誤解しているのです。 現実のスイスは完全な西側国家だったのに。
またスイスがEUに加盟しないのも当然でしょう?
スイス自体がミニEUです。 もし加盟したらそれぞれの民族ごとにフランス、ドイツ、イタリアに吸収されて国家が消滅してしまいます。
しかしそれでもこうして400年余国を守り続けた根性は素晴らしいです。
投稿: よもぎねこ | 2018/01/16 22:01