【我が町】味の素は断じて蛇を原料とせず【味の素川崎工場】
タイトルの意味は後ほど...
先日、ウォーキングの途中で味の素の工場に入ってみました。
本格的な見学ツアーは予約をしなくてはなりませんが、この建物の1Fにある展示コーナーだけなら受付で記名するだけで見学が可能です。
見学ツアーは3種類あり、事前予約が必要(10人以下は個人扱いで、個人でもインターネットでの予約可)で、各コースとも所要時間は90分。敷地内は画像のバスで移動するそうです。(詳細はこちらの公式サイトで。)
予約なしで見られる展示スペースは受付の左にあるこのような展示コーナーだけで、撮影しても良いとのことでしたので何枚か映してみました。
手前にある円形のカウンターは「umami」(うま味)に関する展示で、壁沿いに味の素の歴史を見ることができます。
「うま味」とは、甘味、酸味、塩味、苦味、に加えてグルタミン酸ナトリウムを原因物質とする新たな味覚とされたので、第五の味覚と言われています。
日本語入力ソフトのATOKでロングマン英英辞典を引くと、
“having a strong pleasant taste that is not sweet, sour, salty, or bitter, especially like the tastes found in meat, strong cheeses, tomatoes etc.”
とあり、肉、チーズ、トマトにある味という説明がなされていますが、カウンターの周囲には昆布や椎茸、鰹節とともに、肉やパルメザンチーズなどの模型(食品サンプル)が確かにありました。
もちろん、最初に「うま味」の素が発見された昆布の食品サンプルも。
円形のカウンターの内側にある植物(本物ではありません)は、確か、味の素の原料となるサトウキビ等だったように思います。
左の壁沿いには前述のように、味の素の歴史を容器の変遷と共に紹介するコーナーがあり、ブログ主は横着がって聴かなかったけど、音声ガイドもありました。
上は、一般消費者向けに販売された初めての味の素の容器だそうです。
下は、全く同じものではないでしょうが、ブログ主も見覚えがあるようなブリキ缶の容器も見えます。
容器だけでなく、広告や古い意匠などの展示もあり、その中で面白いものがありました。
下の画像です。
説明によると、大正8年(1919年)-ATOKによると、ベルサイユ条約締結、カルピス販売開始の年だそうで、宮沢喜一元首相の生まれた年だそうです-に、雑誌「赤」に掲載されたイラストだそうで、当時、味の素の原料は蛇であるという風説の流布に悩まされたとか。
これ以外にも京都の新聞に、近江の伊吹山近辺で捕まえた蛇が味の素の原料になっているなどとまことしやかに書かれたりしたそうで、それに対して反論する新聞広告が下です。
1922年5月13日付け『東京朝日新聞』に掲載したそうで、
“誓(ちかっ)て天下に声明(せいめい)す 味の素は断じて蛇を原料とせず”
という見出しです。
(雑誌名といい、京都、朝日、そして味の素のシンボルカラーといい、なぜか真っ赤っかなのは偶然とは言え面白い。 )
画像は読めるように少し大きめにしてあります。(ディスプレイに入りきらない場合は、画像の上で右クリックして別タブで開いて下さい。)
ところで、味の素の工場は京浜急行の大師線、川崎大師駅のすぐ隣です。最初に、ウォーキングの途中で立ち寄ったと書きましたが、実はスタート地点でいきなり道草を食っただけです。
味の素工場の最寄り駅は、その一つ先(京急川崎駅から見れば一つ手前)の鈴木町という駅です。(工場所在地の町名も鈴木町) 川崎大師駅は右側の見切れている位置で、工場の敷地が広いこともありますが、駅間はとても短いのです。
不覚にもブログ主は今回初めて気づいたのですが、この「鈴木町」という町名は味の素の前身の「鈴木商店」(創業者が鈴木三郎助)に由来するのだそうです。
ちなみに、その隣の「港町」(みなとちょう)はかつてコロムビア(現:日本コロムビア)があったところで、駅名も昭和19年以前は「コロムビア前」だったそうで、美空ひばりの『港町(みなとまち)十三番地』のタイトルになった町名です。(下は京急大師線・鈴木町駅)
大師線は、今でこそ京浜急行の支線ですが、1899年(明治32年)1月20日に開通した大師電気鉄道株式会社が京急の前身です。
1872年7月10日(明治5年6月5日)には現JRの川崎駅が既にできていましたが、川崎大師への参拝客を当て込んで、川崎駅前から大師を結ぶ鉄道を計画しました。
しかし、駅前の川崎町の土産物屋や人力車夫が反対し、少し離れた「六郷橋」から「川崎大師」を所要10分で結ぶ路線となりました。運賃は上等10銭(当時米1kgが10銭)、並(なみ)等5銭だったそうです。
大師周辺の住民も、当時は桃や梨の栽培農家が多い寒村だったので、作物や堤防の桜への影響(桜が枯れると堤防が壊れて水害をもたらす)を懸念して反対をしましたが、開通すると、「エレキで走る車」と珍しがったそうです。
話が逸れましたが、1914年(大正3年)建設当時の味の素川崎工場は下のような様子だったそうです。
周辺に被害を与えたのはこの工場の方でした。
塩素ガスと排水で、下流の村では海苔や魚に被害が出、畑の果樹や参道の桜が枯れました。昭和8年には、怒った数名の農民が工場をダイナマイトで爆破しようと企てたという疑いで2名が逮捕されたほどで、この農民が国会議員にあてて作物への被害や人体への影響への恐れを切々と訴えた文書が残っています。
一方で、鉄道の開通によって川崎大師は日帰りで行ける場所になり、かつての宿場町の賑わいもなくなった川崎は、工場の誘致に活路を見いださざるを得なかったことも事実で、それには豊富な多摩川の水が役立ちました。
進出する工場を町の発展の象徴として受け止めてもいたそうです。
【参考資料】
- 『やさしい川崎の歴史』(川崎歴史研究会)
- 川崎の地名辞典(図書館で借りた本の一部コピーのため正確な書名は不明)
- 京急電鉄オフィシャルサイト
- 味の素KKオフィシャルサイト
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