【我が町】川崎大師と縁(ゆかり)の深い町名「夜光」の由来
先日、タウン誌で『「夜光」の由来示す案内板復活』という記事を見つけました。
記事は、1981年(昭和56年)に市の観光協会、夜光町町内会(現在は解散)、日本石油化学(現JX日鉱日石エネルギー)とで建てた案内板が古くなって一時撤去されていたものを復活させたと報じています。
案内板は夜光にあるJX日鉱日石エネルギーの敷地内、通りに面した場所に、道を歩く人にも読めるようになっているそうです。
ところで、この「夜光」と場所。上の地図を見ても想像がつくように、近年になって埋め立てられた工場地帯で、小学生の頃は、夕方近くに教室の窓や屋上からその方面を見ると、煙突から赤々とした火が上り、空を真っ赤に照らしていたので、「夜光」の名にふさわしいと思っていました。
しかし、地名としては新しい「夜光」の名前は、1128年に開山された川崎大師とも関わりの深い名前です。(下の画像:真言宗智山派・大本山金剛山金乗院平間寺/通称「川崎大師」)
川崎大師の縁起(えんぎ)によれば、無罪の罪で尾張国を追われた平間兼乗(ひらまかねのり)は、現在の川崎にたどり着き、漁労を営みながら、我が身の不運を嘆き、 厄除けの祈願を行う日々だったそうです。
ある日、高僧が夢枕に立ち、「私の像が海に沈んでいる。それは光を放っているからすぐに分かるので、網を打って引き揚げ、丁寧に祀れ。」と告げたので、海に出て光っているところに網を打つと木像がかかりました。
この像を祀ったのが始まりで、大治(だいじ)3年(1128年)に高野山の尊賢上人の助力で寺を建立し、自分の名を取って、平間寺(へいけんじ)としたそうです。
そのため、この辺りの海は古くから「夜光の海」と呼ばれたそうです。
現在は夜光(1~3丁目)となっているこの辺りは、昭和12年から始まった埋め立て工事まで完全に陸地にはなっていませんでした。
江戸時代の海岸部は製塩が行われる塩田でした。その後更に新田開発が進み、海岸線は徐々に沖に延びていきましたが、幕末になっても、夜光はまだ陸地にはなっていませんでした。
夜光が陸地になるのは明治27年(1894年)に開かれた夜光新田(現在の夜光1丁目)、明治33年(1900年)に開かれた和泉新田(現在の夜光2、3丁目)まで待たなければならず、昭和12~16年の県営埋め立てを経て、昭和18年に大師河原字夜光となりました。
現在の町名は昭和42年の区画整理によって住居表示が変更され以来のものです。
現在、外部サイトに作成していた“大師を中心とした川崎の歴史と大師地区の町名の由来”を当ブログに移動作業中です。(ココログのwebページの方が更新が容易なので。)
既に、大師小学校の学区に当たる部分は完成していますが、少しずつ周辺まで増やしていく予定です。
なお、夜光を含む埋め立て地帯は、工場地帯ということもあって普段の生活にはあまり関わりのない場所ですが、近年、工場夜景の見学が人気となり、観光スポットのようになっています。
探したら、写真家の犬飼誠人(Makoto Inukai)氏の『夜景Navi』というサイトに夜光の工場夜景の写真がありました。(リンクフリーのようなので、直接リンクを貼って紹介させて頂きました。)
こちらは、川崎市観光協会の『川崎工場夜景』のページ。スポットの紹介やスライドショー、各種ツアーの案内もあります。
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