その昔、横浜スタジアムがある場所は遊郭だったのね -ふるあめりかに袖はぬらさじ-
読売新聞日曜版に関内(かんない)に関する記事がありました。ブログ主にとって興味深いものだったので、覚書として記事にしておきます。
関内駅付近は1856年の開港当時、沼地が多くてヨシやアシが生い茂る湿地帯だったそうで、元々は漁村を人工的に整備して作られた土地だったそうです。
現在北に流れる大岡川と南に流れる中村川に挟まれた土地は、17世紀半ばに江戸の材木商吉田勘兵衛によって開かれたもので、吉田新田と名付けられましたが、開拓前は入海(いりうみ)でした。
現在の地図に当てはめてみると、薄く色を付けた部分が吉田新田に当たります。
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横浜開港資料館のサイトに吉田新田の古地図『YOKOHAMA』(明治22年/1888)が掲載されていたので、そのリンクを貼っておきます。
そして、時代は進み、この辺りに外国人居留地が建設されます。明治3年(1870年頃)には日本大通りが建設されますが、通りの東側(画像右側)が外国人居留地、西側が日本人町になります。『関内』の名称は、この地域に入る橋が関所のような役目をしていて、その内側にあることからそう呼ばるようになったそうです。
「日本大通り」をハマスタ側から海に向かって見たところ(以前の記事『祝!ハマスタ開幕戦(4月4日)』より再掲)
余談ですが、ハマスタの東、中華街の隣に元町という町があります。幕府が開港場を造ったときに横浜村に住んでいた住民は現在の元町に移住させられました。村民は、こっちが本当の横浜村だという思いを込めて「元村」と呼ぶようになり、それが「元町」となったそうです。
更に余談になりますが、ふと、神戸にある元町の名前の由来は?と思って調べてみたら、神戸で「最初にできた町」、「もとの町」という意味だそうで、明治7年にはその名前で呼ばれていたそうです。(ソース:『神戸元町商店街/夢街道』サイト』)
閑話休題
1859年(安政6年)11月10日、オランダ公使の要請を受けて港崎遊郭(みよざきゆうかく)が開業しますが、なんと、この場所が現在の横浜スタジアムです。
町の名主であった岩槻屋佐吉がこの地で経営したのが『岩亀楼』(がんきろう)で、1867年11月の豚屋火事と呼ばれる大火で焼失、現在は、ハマスタのある横浜公園の一角に残された日本庭園に当時の灯籠が残るのみです。(下は新聞記事のイラストマップ。灯籠のイラストが描かれています。)
ハマスタ周辺の洋風建築の画像は以前の記事『コスモプラネタリウム渋谷に行ってきたよ(^0^)/』に何点か掲載しています。
記事は、この遊郭に実在し、異人(アメリカ人)に身請けされるのを拒んで自殺した(とされる)遊女の亀遊(きゆう)の物語(戯曲)、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』(有吉佐和子原作)を紹介しています。(記事によると亀遊も創作という説があるそうですが。)
当時、異人を相手にする女郎(唐人口)と日本人相手の女郎(日本人口)は区別されていましたが、本来日本人口である亀遊はアメリカ人の客に見初められ、身請けされることになりました。通辞(通訳)藤吉に思いを寄せていた亀遊は、その身を儚んで自殺してしまうのですが、瓦版によって攘夷女郎として祀り上げられ、「露をだにいとふ大和の女郎花(おみなえし) ふるあめりかに袖はぬらさじ」という辞世の句を詠んだということまででっち上げられます。(辞世の句は実際は吉原の遊女が詠んだとされるもの。)
その周辺の話を戯曲にしたのが『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で、歌舞伎にもされたようです。
消失後の遊郭は別の場所に移され、1876年(明治9年)には、横浜彼我公園(ひがこうえん=現在の横浜公園)の建設が着工、公園内に居留外国人用のクリケット場も造られ(1874年=明治7年着工)、スタジアムとしての歴史はここから始まります。
なお、クリケット場以降の歴史は横浜スタジアム公式サイトの『横浜スタジアムの歴史』ページで読むことができます。
【追記】横浜開港資料館 展示余話『遊女の手紙と遊郭関係資料』に岩亀楼のおせんから駿河屋に宿泊する彦七(ひこしち)に宛て書かれた書簡など、遊郭の資料が掲示されています。
ブログ主は戯曲はちょっと苦手なのですが、興味を持ったので、早速、図書館に申し込みました。
以前もご紹介したことがありますが、川崎市図書館ではネットで蔵書の検索ができ、そのまま貸し出しの申請をすることができます。受け取り場所(図書館)を指定できるのでとても便利です。(図書カードを持っていれば、ネットでパスワードを取得でき、すぐに利用できます。)
下は、予約後の紹介画面。
本が到着したときと返却期限が近づいたときにメールでお知らせしてくれるのも便利です。
【参考・関連サイト】
【追記】
その後、近所の図書館に前述の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』が届いたので借りて読んでみました。
物語としては、表題作より『華岡清州の妻』の方が面白かったかな。
華岡清州と言えば、江戸時代に世界で初めて全身麻酔の手術を成功させるが、その麻酔薬の実験に実母と妻が協力して母親は死に、妻は失明するという代償を負ったという話くらいは知っていたのですが、美談として扱われそうな題材を、嫁と姑の確執という話に仕立てたもの。
周囲には仲の良い嫁姑と見えて、その裏ではネチネチと対抗し合う女二人。いやぁ、怖い話でした。
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コメント
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ミーちゃんへ
あ、ご存じだったのね。
新聞記事は、触れていなかったんだけど、以前ブラタモリで埋め立ての話をやっていたなーとか、関内の語源ってなんだろとか疑問に思って調べていたら色々と分かったので、覚書にしてみました。
今度ハマスタに行くときはもっと早めに行って「横浜開港資料館」とか「横浜税関資料展示室」(横浜三塔の内のクイーンの塔ね)も覗いてみよう。
このレスを書くのに、開港資料館のサイトに吉田新田の本物の古地図の画像が見つかったので、あとでリンクを貼っておきます。
投稿: 大師小ブログ主 | 2012/04/18 07:36
そうそう遊郭で思い出した
ちょうど一年前 横浜をブラブラ散歩していたとき
立ち寄った「横浜税関資料展示室」
ココで中に税関の解説をしてくれるオジサンが居るんだけど
その人に関内辺りの歴史を聞かされ スタジアムの所に遊郭があった事をはじめて知りました
それと上記にもある”『関内』の名称は、この地域に入る橋”の
「吉田橋」の説明も受け スタジアム経由で見学してきました
その橋の下を流れていた吉田川は現在 横羽線の高速道路に
なってます
投稿: ミーちゃん | 2012/04/18 01:04