幕末動乱の男たち-『武市半平太』
真夏の暑さはないけれど、毎日湿気が多くて
ι(´Д`υ)アツィー
ブログ主は、ついつい冷たいものを摂りすぎて、早くも夏ばて気味です。
先日も、駅近くの病院に行った後、表参道の病院に行こうと出かけたけれど、一件目の病院に行くだけで疲れてしまい、駅前で買い物をして帰路についてしまいました。
で、買ったものの一つが、海音寺潮五郎の『幕末動乱の男たち』(上・下)
たまたま目について手に取ったのだけれど、以前から興味があった山岡鉄舟が取り上げられているので購入しました。
この本は、上下巻に渡って幕末に生きた12人の男たちを、ほとんど名前だけのシンプルなタイトルの作品にしており、収録されているのは、
- 有馬新七
- 平野国臣
- 清河八郎
- 長野主膳
- 武市半平太
- 小栗上野介
- 吉田松陰
- 山岡鉄舟
- 大久保利通
- 三刺客伝
です。
今、大河ドラマで取り上げられている武市半平太も収録されいて、最後の三刺客伝では、田中新兵衛、河上彦斎と共に、これまた『龍馬伝』に出てくる岡田以蔵を扱っているので、お得感(笑)もあります。
書店で、裏表紙の評と言うのか説明に、「司馬遼太郎を始め、多くのの後進作家に強い影響を与えている」と書いてあったのですが、これは解説を読んで理由が分かりました。
司馬遼太郎の作品を読んで気付く特徴は、作中に「ぼく」が顔を出して作者の感想や意見、あるいは「余談だが」と取材中のエピソードなどを語る部分が多く出てくるのですが、この形式は、日本では森鴎外に始まり海音寺を経て、司馬遼太郎に繋がる手法だと、解説者は述べています。
司馬遼太郎の場合は、「ぼく」や「余談だが」の部分が司馬文学好きにはたまらないのですが、しばしば作者の主観が強く出るために、『司馬史観』などと呼ばれたりします。それに比べて、海音寺潮五郎のこの作品では、著者である「ぼく」はあまり強く出ておらず、小説としての流れが妨げられることは少なく感じました。
今、『小説』という言葉を使いましたが、ここに収録されている作品はフィクションの要素が少なく、『史伝』と呼ぶのが正しいようです。
で、最初に読み始めたのは、『武市半平太』。
この本では著者が敬愛する人物を取り上げたようなのですが、『武市半平太』に関しては、「一流中の一流の維新志士」である武市が、(吉田東洋を除いて)数々の暗殺に手を染めたことを「半平太のために惜しまずにはいられない」と述べています。しかし、この作品を読んで感じたのは、武市半平太の限界が、個人の能力の未熟さと言うより、土佐藩そのものの限界によるものが大きく、国事周旋において、薩長の後塵を拝していた土佐をなんとかしようと奔走する武市の苦労がよく分かり、ドラマではできない感情移入をすることができました。
それにしても、この本で土佐藩の動きをおさらいして、今更ながら、ドラマでは何故この藩をフィーチャーしたのかと、(所謂『ご当地ドラマ』だから不思議には思わないけど)思ってしまいました。
わざわざ、こんな分かりにくい藩を描かなくても...
この時代の歴史の流れから言って、土佐藩はどうしても傍流になってしまうし、島津久光みたいな個性的な殿様がいる薩摩とか、『そうせい侯』と呼ばれる藩主の元で藩士が好き勝手にやってる長州に焦点をあてていれば、ダイナミックな時代がもう少し表現できたのではないかと...
一応、エピソードとしては、重要な事件とか出てくるけど、短いカットで、あまり印象に残らない気がします。
いや、どうせ土佐を舞台にするなら、丸々、『幕末動乱の男たち』の『武市半平太』を題材にすれば、薩長との横の連携も描けて時代が分かりやすかったのに。
それと、坂本龍馬と後藤象二郎の関係があんなのでいいのだろうか...と心配。
今後、二人は盟友になれるのだろうか?
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