塀の中のサッカー
昨日(6月28日)の日経朝刊文化面に『寛容貫いた捕虜収容所』というタイトルで、第1次世界大戦中、中国の青島で捕虜となったドイツ軍が収容された「板東俘虜収容所」に関する記事、と言うか寄稿文が掲載されていました。
それで、5年ほど前に『日本におけるドイツ年』の一環として開催された、ドイツ軍捕虜の資料展に行って、板東俘虜収容所のことを知り、非常に感銘を受けたことを思い出し、その時に入手したパンフレットをパラパラと読み返してみました。
青島の捕虜について簡単に補足をすると、1914年9月、英軍および英国領インド軍と共に青島に向けて進軍した日本軍は11月7日に青島要塞を陥落させ、この時、約4,700人のドイツ軍兵士(内300人程はオーストリア=ハンガリー帝国兵士)を捕虜とします。
捕虜は幾つかの捕虜収容所に分けられましたが、その中でも特に有名なのは、徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所です。それは、所長であった松江豊寿(まつえとよひさ)中佐(後に大佐)の指揮下、捕虜達を人道的に扱ったためですが、日経の記事にもあるように、松江豊寿という人は、会津の出身で、敗者の痛みを理解していたからと言われています。
ここで、1920年1月に解放されたドイツ兵士が収容所を去るに当たって述べた言葉をパンフレットから引用すると、
いよいよお別れの日が参りました。敬愛する松江所長、貴兄はかつて、人は誰かと縁で結ばれているというような話をされたことがありました。今我々は、貴兄のような方とご縁があることを心底からありがたく思う次第であります。(中略)
「我ら皆兄弟とならん」我々はこの言葉を、貴兄を思い起こす度に心の中で繰り返すでありましょう。(後略)
板東俘虜収容所のことを知らなくても、ベートーベンの第九が初演された収容所と言えば、思い出す人も多いのではないかと思います。確か高橋英樹主演で、このエピソードが映画化されまていしたね。
ドイツ人捕虜達は、板東ほどではないものの、どの収容所でも比較的自由を許され、収容所内で、文化的且つ経済的な活動を行っていたそうです。と言うのは、捕虜の大半は予備役兵や志願兵、つまり民間人だったので、様々な技能を持っており、それを生かして商店のようなものも作られたり、コンサートやスポーツ、あるいは、料理教室や語学や経済学などの講義も開かれて、日本人も参加していたようです。
現在開かれているサッカーワールドカップで、昨日はドイツチームの圧倒的な強さを見せつけられましたが、どの収容所内でもサッカーは盛んで、板東俘虜収容所でも、4~6チームが作られて近所の子供達にもサッカーを教えたそうです。
調べたら日本にサッカーが紹介されたのは19世紀後半らしいのですが、この頃には日本中に広まっていたようで、捕虜チームと姫路の教員養成所チームとで行った試合について、捕虜の一人が証言しています。
それによると、1回目の試合は6-0でドイツの勝ち。日本チームが雪辱戦を希望して行われた2回目は2-2の引き分け。これに勢いづいた日本チームがもう1試合挑んだところ、8-0でドイツの勝ち。実は、2戦目はドイツチームのキーパーとフォワードが仲違いをして試合に参加しなかったので、それがよいハンデになったようです。
さてさて、今晩はウルグアイ戦。なかなか勝てる相手ではないと思うけど、よい試合になるように祈ってます。
サッカーついでに、面白動画を一つ。北朝鮮と対戦したコートジボワールのエブエ選手。ジワジワきますw
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