弥太郎と龍馬の119日
このwebページは5月21日(金)に放映されたNHK松山放送制作の『弥太郎と龍馬の119日』という40分ほどの番組を要約したものです。
岩崎弥太郎は天保5年(1835年)12月11日、土佐(現在の高知県安芸市)で地下(じげ)浪人の家に生まれる。坂本龍馬はその約1年後の天保6年(1835年)11月15日に、安芸市から50キロ程離れた高知市で生まれ育ったため、土佐では出会った痕跡はなく、記録に残る接点は慶応3年(1867年)の長崎でのわずか119日間である。
■慶応3年(1867年)3月13日、弥太郎長崎に到着
藩の商務組織である土佐商会の主任に任ぜられ、長崎に赴く。弥太郎34歳の時である。弥太郎を推挙したのは土佐藩参政の後藤象二郎で、二人は同じ高知の塾で学んだ間柄であった。
一方、龍馬は2年前から長崎を本拠地に、土佐藩の支援を得て亀山社中を海援隊と改め、事業拡大を目指している。
海援隊の前身である亀山社中は日本初の貿易商社と言われ、慶応元年(1865年)5月頃、薩摩藩の支援を得て長崎で結成されている。
慶応3年(1867年)2月、龍馬は長崎で後藤象二郎と会談し、4月には海援隊として正式に土佐藩の組織下に入る。
土佐藩の貿易を盛んにするため、亀山社の航海術を必要としていた後藤と、天下国家を動かすためには藩権力を利用することが必要と感じた龍馬の利害が一致したからである。この龍馬の思惑は姉の乙女に宛てた手紙に書かれている。
土佐商会での弥太郎の任務は、一つは外国商人から銃や艦船を仕入れて土佐に送ること、もう一つは海援隊を資金面で支援することであった。ここで弥太郎と龍馬は、役人と商人として出会うことになる。
当時、多くの外国商人が外国人居留地に住み、大量の武器を売りさばいていたが、その中で最も取引量を誇っていたのがイギリス人商人トーマス・グラバーであった。ちなみに、1838年生まれのグラバーは、この頃29歳である。
相場の分からない日本人を手玉に取り、莫大な利益を得ていたグラバー。これと対等に渡り合い商売をしていた龍馬に比べ、弥太郎は商売に悪戦苦闘していた。当時、土佐藩がドイツ商人から中古の蒸気船を購入した契約書が残っているが、7万ドル(約28億円)という法外な値段を請求されている。それに対し、藩から、現金がないので代わりに樟脳(しょうのう)で支払うようにという無理難題を押しつけられ、悩む日々であった。
長崎到着から一月後の日記には、『郷愁惨然 少し齟齬致し候 中心不安 色々案じ夜巳三更を過』(「故郷が急に恋しくなった。今日、外国商人殿取引で行き違いがあり、不安でたまらない。あれこれ悩んでいたら深夜0時を過ぎてしまった。」)などと書いている。
この頃の日記には龍馬のことも書いている。
「4月19日 海援隊の給料100両をせびりに来た。大阪行きの仕事に必要だとさらに50両せびり しかたなく会社の金から50両借用して渡すと、ころっと態度が変わり、政治や商売の話を夜更けまでして帰って行った。すっかり龍馬のペースだ。まことに喰えん男だ。」
藩に重用されている龍馬の機嫌を損ねてはならないと苦労する弥太郎の姿が伺われる。
そんな弥太郎も、徐々に商売のこつを掴んでいく。料亭や遊郭に外国商人を連れ出し接待するという方法で、酒好きの弥太郎の得意技である。長崎の料亭花月には、慶応3年の半年間に23回訪れている記録があるという。
この頃付き合いがあった外国商人の中でも特に親しかったのはイギリス商人のウィリアム・オールトで、彼とは公私を通じて信頼関係を築き、大きな取引をいくつも成功させた。
■4月23日
日本初の海難訴訟事件と言われる『いろは丸事件』が起こる。海援隊が伊予の大洲藩から借りて物資を運んでいたいろは丸が紀州藩の大型船と衝突、沈没してしまう。
■5月15日
長崎で海援隊と紀州藩との交渉が開始される。弥太郎は奉行書に提出する書類作成を一手に引き受け、龍馬を後方支援する。
この頃、弥太郎はオールトと頻繁に会っている。オールトは、交渉のための理論武装をするために海外での事例を教えて弥太郎を支援したという説がある。海援隊は外国の事例を参考にして決めるべきだと主張。このような争議は紀州藩も経験が無く、了承せざるを得なかった。弥太郎はその頃長崎を訪れたイギリス海軍提督にオールトを通じて接触し、紀州藩に揺さぶりを掛けた。
■5月22日
長崎聖福寺(しょうふくじ)での交渉で、ついに紀州藩が賠償金を支払うことを認めた。賠償額の計算を任された弥太郎は一晩で積み荷の価格を計算し、その額を8万両(33億円)とはじきだした。この件での成果が認められ、土佐商会の総責任者に任ぜられた。
この頃、龍馬との仲もきわめて親密となり、日記にもしばしば龍馬が登場する。
「6月3日 龍馬と酒を飲んだ。自分の考えを話すと龍馬は手を打って褒めてくれた。」
「6月9日 京都に向かう龍馬を港まで見送りに行った。この日のために仕立てておいた馬乗り袴を贈った。」
なお、長崎から京都に向かう船には後藤象二郎も同船していた。この船中で龍馬は『船中八策』と呼ばれる、新しい国家の体制についての構想書を示している。
■7月6日
酒に酔ったイギリス人水夫が料亭花月の近くで殺害されるという事件(イカロス号事件)が起き、花月にいた海援隊士が容疑を掛けられる。弥太郎はこの件の責任者として事態の収拾に当たり、海援隊士が事情聴取に協力すれば嫌疑は晴れるという所までこぎつけるが、隊士は薩摩に届ける荷物があるからと長崎を去ってしまった。この頃の弥太郎では、くせ者揃いの隊士を制することはできず、しかたがなく、大政奉還の実現に向け京都で奔走していた龍馬が長崎に戻ることになる。龍馬は隊士を呼び戻し、奉行所に出向いてたちどころに無罪を勝ち取ってしまう。
しかし、調査の途中で長崎を無断で離れたことを問題視された海援隊と弥太郎は奉行所に呼び出され、穏便に済ませようと努める弥太郎を尻目に隊士は反抗的な態度を取る。
この時のことを9月7日付けの日記に、「海援隊は、話がこじれたのはわしのせいだと主張し、龍馬までもがわしを腰抜けと罵倒した。後味の悪い夜だった。」と書いている。龍馬の怒りも相当だったようで、花月の柱にはこの一件で怒った龍馬が刀で切りつけたと言われる刀傷が残っている。
■9月18日
龍馬は大政奉還の実現に向けて再び京へ向かうが、弥太郎は見送りには行かなかった。
弥太郎と龍馬の119日はここで終わる。
その後は、10月13日大政奉還が行われ、それから約1ヶ月後の11月15日、龍馬は暗殺される。龍馬が暗殺されたという知らせが伝わったと思われる日から数日間、毎日書かれていた日記は空白であり、その時の弥太郎の心情を計る術はない。
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